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『 panding.com 』


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 最近縁在ってか、小千谷縮(おぢやちぢみ)なる着物を手に入れたのだが、どうやらこの着物、その洗練された製造技法の保存的観点から、国の重要無形文化財に指定されているらしく…

(小千谷縮 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0
%8F%E5%8D%83%E8%B0%B7%E7%B8%AE)

 本々は只の一目惚れという極めて純粋な理由であった訳だが…
此処へ着て、些か自己満"賊"の熱有り…基本表情が視えないネット上で小難しいのはやりたくないが、考えてみれば個人の日記、云いたい事を記すわ、ロジック等も云ってみたくなったものでね…

根拠の無い只の私的なタリラリラ〜ンな考えよ…
だので、こっから興味の無い人はスルーしてok。






              で、





 西洋文化主流(必ずしも言切れる訳ではないが)の様な現代の日本に於いて着物を骨董品と視る事も、唯の伝統的なドレスコードの一と考える事も、常に帯流変動し続ける世界に在って、歴史的ルーツや政治的イデオロギー、社会的な背景等様々な要因因果によって歴史の一片に埋没するであろうか此の時代に、今の様な思想でありスタイルで在る事も、事実、超自然な出来事なのであるが…


衣服の歴史上、衣服の持つ重要な役割(皮膚の保護、体温の調整から個人の表現や社会的秩序の確立に至まで)を除き、形という定義で大きく二元化(かなり強引であるし、結果、形が役割を産む事も有ったかもしれないが)するならば、そもそもドレスやスーツに視る西洋の様式美、いわゆる『着る』と、東洋の『包む』、大きくこの二つに分類されると想われる。

コノ二元論の違いについてはこうだ。
『着る』は、(個人の)"形に合わせていく"という考え方(オーダーメイドスーツに視る概念がそれ)に対して『包む』は、そのモノの"形に成る"という考え方(この場合、当然個人であるが、風呂敷を連想してもらうと分かり易い様に、ご祝儀や香典から、弁当や衣類、必要な時に必要な形になり、用が済めばたたんで懐(ふところ)に…といった工合)である。
やはり根本的な概念が違っているのだから、この場合当然どちらが勝るとも云えないワケだが….


また、骨董と着物の定義に関しても様々に見解等有る様には想うが、私なりにこうも考える。
眺めるだけは骨董品(飽(あ)くまで骨董は眺めているだけの物という前提に無いが)、着るは着物(元来語源として"着るもの"という言葉が詰まって”着物”なのであるとか)…当たり前の様ではあるが、考え方によっては"骨董を身に纏う"という事は、文化遺産、美術工芸品等etc…それぞれに触れ方、味わい方、感じ方は有るにせよ、私にとって他の何れにも無い『何と言う名の( 超主観的 )快楽だろう…』と考えてしまえるモノなのだ。

モヒカン頭の馬鹿は、馬鹿なりに骨董の醍醐味を使ってナンボであると考える。
そして其の恍惚に身を祀(まつ)る行為こそが存在論的証明を在るモノとする…様な季節はもう過ぎた様に想うが、しかしながら心持ちは確実に揚がるのであって、以前の様なこれ見よがしでは無いにしろ、多少のオゴリは認められる。

 素敵なモノはやはり素敵なので在り、心が満たされると体も悦ぶ、実にシンプルな構造である。


着物を召して四季を体現する事の出来る民族


上等ではないか


ナカナカ美しいぞ


まだ贅沢をちゃんと知っているじゃないか…


己は未だ日本人でありたいと願い生きる者だと














          !?













おおおぉぉぉoooOOおおおっ…!?



何か…


真面目な日記で笑えんのですケロぉぉぉぉぉぉぉぉぉooooOOOお。

8杯目以降ペ〜スをシンキングしないでドラングすると暴れるアキラは猫です

大変に我が儘なる不完全な燃焼物ナリ蹴れ

今夜の猫はシラフだZzz.






PS:matome(以下、一部コピペ)

青山二郎曰く
「頭で見るな、目だけになれ」ですと…

頭で考えない、知識で見ない、感覚だけで見る。ただただ一つの「もの」として見る。
「今まで得た知識や情報を全部忘れて、裸の心でものに接する。そして相手が心を開くまで黙って待つのである。その時はじめて骨董は向うから語りかけてくる。」

で、

青山二郎に育てられた白州正子曰く
「美術館のガラスに入っている骨董は顔色が悪い」ですと…



以下、白州正子のお話…

桃山時代の鉄製灯明台に江戸時代の伊万里の蕎麦猪口を乗せ花生けとして使った。

室町時代の備前陶板→皿や壺を乗せて焼くものに果物を乗せる大皿として使った。

藤静允(陶芸家、京都)本職は小児科医師だったが、正子はその腕を高く評価していた。正子が作品に惚れ込み世に紹介した。
「古いものがみないいわけではない。好きなものを使えるような形で作りたい。」

「人も骨董も二分見れば全てわかる」

「断固として自分はこれがいい」と言い切る

死ぬまで愛した古伊万里の壺→偽物だったが、好きならばそれでいいと言って気にしなかった。

「5、60年やってやっと骨董にも魂があるということを知ったの。その魂が私の魂と出会って、火花を散らす。人間で言えばひとめぼれっていうやつかな。どきどきさせるものだけが美しい。随分色々のことを教えてもらった。いかに生くべきかということまで。」



 
猫はこんな大人に成りたいです…ぱんだにのっとるのだケロ…

 
 
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山形男着物

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by K1LLER-A | 2010-08-09 21:04 | AKIRA TIMES | Comments(0)


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